2013.2.10(日) 「死の淵と、現代を滑るスキーヤーについて」

 先日、会社の集まりでスキー旅行へ行ってきた。同行した人の中で、登山を趣味にされている方がいて、その話が印象的だった。僕の理解が間違ってる部分があるかもしれないけど、いくつか書き出してみると…

・滑落の現場に立ち会った話。登山中に滑落の音を聞いたので、急いで先に進むと夫婦のうちの奥さんのほうが崖から落ちていた。警察に通報するために下山する途中に、ちょうどその崖を登る人がいて、その人いわく、奥さんは即死だったそう。
・雪渓を下っているときに、前にいた人が足を滑らせて300メートルほど滑っていった話。たまたま平らなところがあって、そこでスピードを落としてその人は助かった。もしも岩があってぶつかったら即死だとか。
・遭難したときは谷ではなく尾根を目指したほうが良い。尾根の近くには山道があることが多いから。遭難すると喉が渇いて川の流れる谷へ行きたくなるけど、谷の近くにはたいてい2〜3メートルの崖がある。そこで滑落して骨折したらアウト。
・雪崩に遭遇したら、なるべく顔の前に空間を作るような姿勢にすると良い。そうすると埋もれたときに呼吸ができる時間を長くできる。それでも、埋もれてしまったら助かる確率はごくわずか。

 僕はこの手の「死の淵」を覗いてしまった人の話がけっこう好きで、話を聞いてから1週間くらい、そのことについていろいろ考えたりしてしまう。当たり前の話だけど、今この世界に生きている人はだれも死を経験していない。そして、今この世界に生きている人はだれもがいつか死を経験する。「死の淵」の話から多少なりとも死を知りたい、想像したい、と思うのは自然なことだと思う。

 昔、高校生のころに初めて村上春樹さんの「ノルウェイの森」を読んだ。その中に、「死は生の対極としてではなく、その一部として存在している」という文章が太字のゴシック体で、強調されて出てきた。当時は「?」と思っただけで、その意味がよく分からなかったけど、今なら少し分かる気がする。

 現代社会では、人々が死を意識しないように、巧みに「設計」が行われている。「今日、もしかしたら事故かなにかで自分は死ぬのかもしれない…」と思って生きている人は少数だろう。むしろ、「自分はいつか将来かならず死ぬ。でもそれまでは生き続けるだろう。そしていつか来るはずの死までの間には、まだ相当な時間がある」というのが多くの人が無意識に思っていることだと思う。

 でも実際にはそんなことはなくて、死は我々のずいぶん近くに存在している。大きな地震が起きて建物が崩れてしまうかもしれないし、車を運転していたらトンネルの天板が外れて車ごと潰されてしまうかもしれない。地下鉄に乗っていたら、悪意を持った誰かが毒を撒いて、それを吸ってしまうかもしれない。我々は、雪山にいるときと実はそれほど変わらない危険性の下で生きている。そしてそのことを普段は忘れている。

 現代社会を安穏と生きている我々は、ちょうど整備されたゲレンデの上を滑るスキーヤーのようなものなのかもしれない。リフトに乗って山頂までのぼり、そこから降りることを毎日繰り返す。たまの休みには別の山に登ったりもするけど、そこにはそこできれいなゲレンデが用意されている。上手に滑れる人もいるし、そうでない人もいる。

 しかしもしも地震のような大災害が起きてゲレンデから「コースアウト」してしまえば、そこには本当の雪山が待ち構えていて、いつでも我々を簡単に飲み込んでしまうことができる。滑落、遭難、雪崩、なんでもありの世界だ。普段は意識しないけど、我々はそういった世界の上に、きわめて微妙なバランスで暮らしているのかもしれない。

 今回は話が大きくなり過ぎてしまった。今日はここまで。